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10 ”十七条の憲法”に、日本の精神史の源泉を見る ! 2月29日
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日本人のこころの背骨は、一体何か?と・・・・・。探ってみたくなった。
そこで、 『思索の庵-9』において羅列(られつ)してみた。
戦後、我が国の復興は世界中が目を見張るものであった。・・・・が、その代償(だいしょう)に・・・、気づいてみれば我が国には大きな課題を抱える事となっていた。
改革が望まれている。・・・・。
<そして、今(2006年)、少しずつ具体化の様子が見えてきてはいる。>
国民は、本音のところで焦(あせ)っている。・・・が、しかし、確かな視座をもっているわけではない。
戦後、じりじりと、長い時間を掛けて、この”課題”は膨張した。
一朝一夕に是正できる妙薬も無かろう。
日本人の好きなスーパーマンも・・・・、中年のお好みの水戸光圀の”印籠(いんろう)”も、現実には無い。
”一億、総、下手人捜し!”と、皮肉った評論家もいた。 ・・・・・が、
他人ごとのように、世の中を憂いてグチって見ても、どうにかなるお話ではない。
結局は、
足下を見定めて、自分を・・・、家庭を・・・、地域を・・・、と"身近"なことから"自ら行う"=実践すること以外に方途は無かろう。・・・。そう思うのだ。
そんなことを思うとき、以下の資料に、示唆を感じ取るのである。 ・・・・ 苦縁讃 |
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普遍(ふへん)的国家の理想とその哲学的基礎
・・・・・・ 「日本の思想史」 中村元 著 春日屋伸昌氏訳より |
T 佛教伝来 |
仏教、朝鮮を経て日本に伝来三国時代の朝鮮南西部の一国王百済(くだら)の聖明王が「釈迦仏の金銅像一躯かねみかたひとはしら・幡蓋若干はたきぬがさそこら・経論若干巻きょうろんそこらのまき」(『日本書紀』より)からなる贈り物と共に使節を日本の天皇に送った。
欽明天皇(在位539〜71)は、非常に感激した。
この時、欽明天皇は臣下に相談するのを賢明であると考えた。
臣下のある者は、「日本も新しい宗教を採用して他の文明国の例にならうべき」だと主張、また、ある者は、「もし、”異国の神”をあがめるならば、日本の神々が怒るのではないか」と申し立てた。
しかしながら、佛教が日本において重要な役割を果たすようになったのは推古天皇の治世以降のことである。
この時期の傑出した人物が、聖徳太子である。
☆ この頃の歴史的な背景は、最後(この章の終わり)に掲載。 |
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聖徳太子の独見創意と仏教 「日本精神通義 - 日本精神の源流 -」 安岡正篤 著 より |
これは実に有り難いことでありました。
思想信仰の問題というものは、まことに微妙な、注意すべき大事でありまして、仏教の急激な興隆なども、確かに調子に乗って、とんでもないところに逸れかねぬ危険性が多分に在ったのであります。
西暦前千五・六百年頃からインドのパンジャープ地方にやって来たアリアン人種が、その雄大荘厳な大自然に驚嘆讃仰の情を禁ぜずして、ここに四種の讃歌、吠陀ヴェダVedasを作り、祭祀を始め、その讃仰祭祀内省がだんだん梵書(ぼんしょ)Brahmanasや優婆尼沙土(うばにしゃど)Upanishads哲学を生じ、この間ガンガ流域に勢力を占めるようになるにつれて、先住民族との間に生ずる惨憺(さんたん)たる軋轢(あつれき)闘争の苦悩が、中国よりもまた別趣の悲惨な社会を実現しました。
この点、実にわが日本と天地の相違があるのであります。
仏教は釈迦によって、いかにこの現実の苦悩、単に人間としての生老病死などの苦悩ばかりでなく、民族的、国家的生活苦より解脱すべきかの道を説かれたものでありますから、元来はどうしても超国家的性向を免れません。
現に、法興寺が起工された年、というと推古天皇即位の前年でありますが、仏教とはこれを法興元年と呼び、それが後にできた法興寺の薬師仏光背銘や伊予の湯岡(ゆのおか)碑<太子は伊予の道後に行っていた>などにちゃんと用いられているのであります。
わが国の年号は「大化」が始めでありますが、西洋の法権、王権の対立などから考えて、寒心させられる問題であります。かような危険も日本は何の苦もなく祓いのけていっているところに真に神ながらの国体ということを痛感させられるではありませんか。
「日本精神通義 - 日本精神の源流 -」 抜粋 安岡正篤 著 より |
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歴史のページにリンク
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U 聖徳太子 |
太子は、日本のすべての統治者の中で最も優れた、また最も慈悲深い一人であり、日本における佛教の確立者であった。
当時、国土は反目する武将や世襲の地方豪族達によって揺り動かされていた。
彼らはそれぞれ自分の領土ではみずからが法であり、民衆を服従させていた。
太子はこれらの地方の武将達を抑え、旧弊を廃止すべく舞台を整えたが、このことは、太子の死後、646年の勅令で宣言された大化の改新において実行された。
世襲的(せしゅうてき)に土着し自治を維持してきた地方の統治者達は追放され、彼らの財産は、”民や奴(やっこ)”も含めて国家に没収された。 |
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V 十七条の憲法 |
推古天皇の12年(604)に聖徳太子は通常”十七条の憲法”と呼ばれるものを発布した。
これは日本の最初の立法で、当時の日本思想の独創的かつ創造的な発展の表現であり、主として仏教精神に基づきながら、中国やインドの思想を適当に活用している。いわば我が国のマグナカルタとも言うべきものであった。
一般には太子自身によって書かれたものと考えられている。
歴史家の中にはそれを疑うものもいるが、その主要な思想が太子自身の考えを表現していることには議論の余地がない。 |
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1 特徴 |
(1) |
その根本精神が厳密に法的な規定と言うよりもむしろ道徳的な訓戒の形で表現されている。法的な規制を含んでおらず、むしろ倫理や宗教の基礎を述べ、後年制定されるさまざまな法律の指針となり、かつ内的規制として機能することを意図したものである。
中央集権的官僚国家という太子の政治的理念を反映して、憲法において具体化された理想は、大化元年(645)の改新において、より明白な表現をとることとなった。 |
(2) |
太子の死後24年ほど経た年になって、日本の社会の重要な変革に手が付けられた。
大化の改新によって確立され、日本の統一を達成した政治体制とこの憲法との間に密接な関係の存在することは専門家の認めるところである。 |
(3) |
ソンツェン・ガンポ王の法律あるいはアショーカ王の勅文と比較すると、ソンツェン・ガンポ王の法律あるいはアショーカ王の勅文は、民衆に向けられたものであった。
◇ |
ソンツェン・ガンポ王の法律・・一般大衆に対する道徳的な戒律 |
◇
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アショーカ王の勅文 ・・ 一部はエリートに向けられたとしても、大部分は一般大衆に対するものであった。 |
◇
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太子の憲法は、”公(おおやけ)の道”すなわち国家の問題に関与する際の規範となる精神的・道徳的態度を規定したものであった。
官吏に対するものであり、朝廷政府の役人の業務に対する指針を与えるものであった。 |
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(4) |
中央集権国家の出発点からして既に官僚制が日本で根強いものであったことを暗示している。後の日本の官僚の優位がこの事実の中に予示されていると考えられるであろう。 |
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2 十七条の憲法の内容を見る ・・・ 中村 元氏の訳による |
(1) ”和”を強調 |
第
一
条 |
第 一 条
「和(やわらぐ)を以て貴しとす。忤(さか)うることなきを宗(むね)とす。
人皆党(たむら)あり。また達(さと)る者少なし。
是を以て或は君父(くんぷ)に順(したが)わず。また隣里に違(たが)えり。
然も、上和(やわら)ぎ下睦(むつ)びて事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、
事理自(おのずか)らに通(かよ)う。
何のことか成らざらん。」 |
一曰 以 和 為 貴 無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。
テ ヤハラキヲ シ タフトシ
乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。 |
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注:
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「和(やわらぎ)を以て貴しとす。・・・」は、中村 元氏の書物に在った。これは「意を得たり!!」であった。
「和(わ)を以て貴しとす。・・」と読むのは、漢字を知っている知識人達には分かるが、文字を知らないこの時代の大部分の人びとにはしっくりと意味が通じなかったと思うからである。また、以後の文とも符合している。官吏達も、和(やわらぐorやわらぎ)と訓読みをしたに違いないと思う。(しかし、権威を保つために、強いて訓読みしたかも知れない。今に至っても、政治家達の選挙運動には、自らの名前を音読みさせて権威を誇示している。ヒトの内なる心情はそんなに大きくは変化できない。現代は、漢語よりも英語を多用して権威を示そうとする。・・・・発音は英語ではない。日本英語ではあるが・・・。)
当時は、話は耳で聞いて言葉で話すことの方が一般的であったはずである。しかも、憲法とならば、やがては国民のすべてに理解させようとするものである。意味の通じる読み方をしたと思う。
だが、中村氏の著作によってはじめてこの読み方を知った。
そして、すんなりと納得できた。・・・・苦縁讃 |
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管理人の意訳:(当時、文字の読めなかった市井の人々には、以下のように理解させたことと思う)
第一条には・・・・・
こころを穏やかに親しく他と接することはとても素晴らしいことだ。
内に”非難・批判”の心を秘めて他と接することのないように心得るべし。
人間、皆、それぞれの好みがあり、党派を組み、「好き」「嫌い」の感情に左右され、”非難・批判”の角を立てやすい。
しかし、見識があり円満で人生を達観した人物なんぞはそんなに居るモンじゃない。
(どちらが正しくて、どちらが間違っているなんて、判定できるものではない)
だから、目上や年配者に従順になれなかったり、隣の家や村との争いも生じたりするものである。
だが、上を敬愛し若い者や下の者にたいしては、慈しみの気持ちをもって、お互いに話し合い心を通わせることが出来れば、物事は自然に成るべき方向に進んで行くものである。
何も、難しいことではない。 ・・・・・ 子どもの頃、爺さんから良くお説教されたもんだ!思い出す。・・・・苦縁讃 |
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”隣里に違(たが)えり”の解釈 |
ここでは、「隣の家や村との争いも生じたりするものである」と解釈した。
しかし、農作物の不作や台風などによる水害などに、くり返し見舞われたり、領主の圧政によって、非情な年貢(ねんぐ)取り立てで、小作民たちは村から離散して彷徨(さまよ)うことも多かった。
このような状況は、随分と長い間、各地で起こった。(農民の「先祖伝来の土地」という概念は、後の源頼朝の治世1192年以降になってからかも知れない)
従って、
”隣里に違(たが)えり”を、そのような村移りとの解釈も可能であろう。
しかし、第一条全体の内容からして、「村民の諍(いさか)い」を指していると解釈した。 |
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中村 元 によると、
「ある学者たちは、「和」という言葉が『論語』に出ているところから、その概念も儒教からとられたのであると主張している。
しかし、『論語』では、「和」は礼儀正しさないし礼儀作法との関連で用いられているだけで、主題となっているわけではない。
ところが太子は和を人間の行動原理として提唱したのである。
彼の態度は仏教の慈悲の思想に由来するもので、儒教とはっきり区別されるべきであると思われる。」
とし、「聖徳太子の憲法は民衆の福祉を尊重し、民衆に思いやりを注いでいる。」 とのべた。 |
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中村氏は、同書でこう解説している・・
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この”和”という主題は |
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第一条のみならず、憲法全体に特徴的なことである。
ある学者は、”和”という言葉が『論語』に出ているところから、その概念も儒教から採られたものであると主張している。
しかしながら、『論語』において”和”はその人の身分にふさわしい礼儀作法を意味している。
(和は議論すべき対象ではなかったが、太子はこの徳を人間の行為を規制する主要な原理として主張した。太子の態度は仏教の慈悲の思想に由来するもので、儒教の礼節の思想と明らかに区別される必要がある。) |
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”和”を達成するための具体的な方法 |
さらに、太子は和を達成するための明確な方法を提示している。
即ち、どのような問題に関わる議論においても怒りを抑えることは、我々が全くの”凡夫”であることを深く自覚することによってのみ可能であるというのである。
人間というものは頑固で偏狭に陥りがちであるから、一つの共同体のなかでも、また共同体相互間においても闘争が起こりがちである。
このような闘争が克服され、和が実現されてこそ初めて調和ある社会が形成されるのである。太子に憲法のすべてにわたって、主君と臣下、上司と部下、さらには一般民衆また各個人それぞれの間において理想として志求されるべき和の精神が述べられている。
ところで、志求されるべき目的が和であって単なる服従ではない点に注意すべきである。 |
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第
十
条 |
第 十 条
「忿(いかり)を断ち、瞋(いきどおり)を捨てて、人の違(たが)うを怒らざれ。
人皆心あり。心各執(と)れることあり。
彼是(ぜ)なれば我は非なり。我非なれば彼は是(ぜ)なり。
我必ず聖(さか)しきあらず。彼必ず愚(おろか)にあらず。
共に是れ凡夫ならくのみ。是非の理(ことわり)、誰(たれ)か能く定むべけん。
相共に賢(さか)しく愚かなること、鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。
是れを以て彼の人瞋(いきどお)ると雖(いえど)も、還りて我が失を恐れよ。
我独り得たりと雖(いえど)も衆に従いて同じく挙(おこな)え。」 |
十曰、絶忿棄瞋、不怒人違。人皆有心。々各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理、?能可定。相共賢愚、如鐶无端。是以、彼人雖瞋、還恐我失。、我獨雖得、從衆同擧。 |
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管理人の意訳:(当時、文字の読めなかった市井の人々には、以下のように理解させたことと思う)
「納得がいかぬ」と怒ったり、恨みを抱いたりなど・・、自分と比較して他者が”違う”ことを怒ってはならない。
人は皆、自分(己)同様に思うことがあり、拘(こだわ)りや信念とするものがある。
皆、それぞれ違うのである。
そこで、「相手が正しい」となれば、自分が正しくないことになり、「自分こそ正しい」と思えば、相手・他者は”非”となる。
だが、自分が必ずしも常に清く正しいとは言えない。
自分と考えや意見が違う他者が、決して”愚か者”であるとは言えないのだ。
何故かならば、お互いに人は皆”凡夫”だからだ。
凡夫には、”是・非”を裁決する能力は無いのである。
凡夫はお互いに似(に)て、ある部分には長け、ある部分には劣っている。
あたかも、お互いに”人”の能力なんぞは、まるで指輪や耳輪の如く、指とか耳を飾って美しいが、他に使おうとすればなんの役にも立たない。
そう想えば、自分と趣味や主張の異なる相手に対して、つい恨みを抱いたときには、振り返って自分も相手にそう思われることを自戒せよ。
”順風満帆(じゅんぷうまんぱん)”。ことが上手く運ぶとはいえ、驕(おご)らずに調和して、他と同(どう)じよ。 |
16世紀の初め中国の硬骨の偉人といわれた崔銑(さいせん)が遺した
後渠集(こうきょしゅう)」という語録に出てくることば:「六然(ろくぜん)」がある。
勝海舟もこのことばを好んだ。
自処超然(じしょちょぜん) 処人藹然(しょじんあいぜん)
有事斬然(ゆうじざんぜん) 無事澄然(ぶじちょうぜん)
得意澹然(とくいたんぜん) 失意泰然(しついたいぜん) |
補足: ☆ 日本人の素顔をなす要素。・・・「一念五然」 ☆ |
日本人が持つ生死観の基本要素は
(宿命観) 哀念(あいねん) (生命観) 欣然(きんぜん)
(道徳観) 粛然(しゅくぜん) (運命観) 淡然(たんぜん)
(人間観) 藹然(あいぜん) (宗教観) 超然(ちょうぜん) |
・・のことで、日本人はこのような観点を無意識に統合しながら、人間としての限界をそっくり受容する諦観(ていかん)に立ち、運命を拓(ひら)き、使命や理想を追求し、自己実現し、その自己を越えつつ立命(りつめい)を果(は)たしてゆく。
つまり人間が持つ宿命、「さだめ」といってもいいけれど、ともかく選びようのない宿命の中でしか生きられないという、そういう哀(かな)しみを心の裡(うら)に深く湛(たた)え、その哀しみも人間の気高(けだか)さにまで昇華(しょうか)させる。
そして、選べるはずのない死を、絆(きずな)の中に生きる人々のために選び、その自ら死に赴(おもむ)くことに「欣(よろこ)び」すら含ませ、「おごそか」の中に「淡々」として、棄(す)てるもの、棄てられるものの哀愁(あいしゅう)を越えた、切なくも懐(なつ)かしき人生の日々をなごみのまなざしで思い返しながら、未練(みれん)深き世間の情と絆(ほだ)しを断ち切って、しかも再びその苦界(くかい)に転生しようと冀(こいねが)う心情。
日本人の心の原風景と言いますか、いわゆる死を情念化させる日本人独特の生死観が有る。
・・・・・ 出典失念 m(_ _)m |
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<和の雰囲気のなかで怒ることなく議論すれば、さまざまな問題はおのずから解決され、個人間及び集団間の決定も和が行きわたっているところでのみ正しく行われるであろう。和がないところでは、個人は個人と争い、実りのない抗争が続くのである。>
太子は民衆は単に服従すべきであるとは教えていない。
正しい見解を得るには和の雰囲気のなかで討議すべきだというのである。
熱心な討議は最も望ましいことであるが、他方、和を欠いた態度や言葉は避けるべきだとされた。
すなわち討議においてとげとげしさを避けることは、すべての人間が全くの凡夫であるという事実に対する自己反省を通してのみ可能である、という太子の考えは先の箇所(第十条)に現れている。
太子は、当時の民衆が、みずからの行動の基準となり、統治者に謙虚な自省を促すような宗教を必要としていることを見て取った。こうして選ばれた宗教が仏教であり、三法すなわち仏・法・僧は生きとし生けるものに究極的な理想を与え、あらゆる国の人々の生活に究極的な基盤を与えるものとして尊重された。 |
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第
二
条 |
第 二 条
「篤(あつ)く三宝を敬え。三宝とは仏(ほとけ)法(のり)僧(ほうし)なり。
則ち四生(ししょう)の終帰(しゅうき)、万国の極宗(ごくそう)なり。
何の世、何の人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪しきもの鮮(すくな)し。
能(よ)く教うれば之に従う。
それ三宝に帰せずんば、何を以てか枉(まが)れるを直さん。」
注:この部分は、安岡正篤著 「日本精神通義」による。
ア |
三宝とは、 |
申すまでもなく、「仏・法・僧(ほうし)」のこと。 |
イ |
四生とは、 |
胎生(たいしょう)→人畜 |
卵生(鳥類) |
湿生(虫類) |
化生(変化類)・・のこと。
注: 「化生」 広辞苑によると・・・ |
ア、 〔仏〕 四生の一。
母胎または卵を通過せずに、超自然的に突然生れでること。また、そのもの。
仏・菩薩または天界の衆生の類。弥陀の浄土に直ちに往生すること。
イ、 仏・菩薩が衆生を救済するため、人の姿をかりて現れること。化身。化人。
今昔物語集11「是化生の人なり」
ウ、 ばけること。ばけもの。変化(ヘンゲ)。 |
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二曰、篤敬三寶。々々者佛法僧也。則四生之終歸、萬國之禁宗。何世何人、非貴是法。人鮮尤惡。能ヘ従之。其不歸三寶、何以直枉。 |
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@ |
第一に、その思想は、悪に固まった人間はほとんどおらず、誰でも教化すれば宇宙の根本真理である仏教に従うようになるいうのである。これは東洋的な思惟の特徴であり、西洋的な観念と対照をなしている。永罰という思想は仏教には無縁であった。 |
A |
普遍的な法という思想、すなわち真理は「四生の終(つい)の帰(よりどころ)、万国の極(きわ)まれる宗(むね)」であるという思想である。
「何れの世、何れの人か、是(こ)の法を貴ばざらん」と太子は問う。
太子によると、あらゆるものが一つの原理に収束されたところが”法”と呼ばれるのであった。
◇ |
推古天皇の二年(594)、太子の伯母である推古女帝が三宝の振興に対して朝廷の援助を与える旨の勅令を発した。
その勅令に従って、朝廷の大臣達は互いに競って仏教寺院を建立したという。こうして仏教は根を張り、生長し、花開したのであった。日本文化史の新しい時代が始まったのであった。 |
◇ |
アショーカ王と聖徳太子との間には基本的な原理の違いはなかった。
仏教の精髄はすべての宗教や哲学の教える普遍的法則を認めるところにあるからである。
また同様に、彼らはこれこそ宇宙の真理であるとかれらが考えた法のうえに普遍的国家を築こうと努めたのである。 |
◇ |
冠位十二階の制定:それ以前、朝廷の高い官位は社会的身分の高い人によって占められ、
世襲的に伝えられたのであった。
それが新しい制度のもとでは宮廷への就職や昇進は能力によることになった。
生まれではなく功績が新しい評価の基準になったのである。 |
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(4) |
官吏(かんり)の間に模範的な倫理的態度を確立・・善を尊び悪を憎む精神 |
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第
六
条 |
第 六 条
「悪しきを懲(こら)し善きを勧(すす)むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。
是(これ)を以(もっ)て人の善を匿(かく)すことなかれ。悪しきを見ては必ず匡(ただ)せ。
其(そ)れ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は国家を覆(くつがえ)す利(と)き器(うつわ)たり、
人民を絶つ鋒(と)き剣(つるぎ)たり。亦(また)佞(かが)み媚(こ)ぶる者は、
上に対(むか)いて好みて下の過(あやまち)を説(と)く。
下に逢いては上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。
其れ此(かく)の如(ごと)き人、皆君に忠なし、民に仁(じん)なし。
是れ大なる乱の本(もと)なり。」 |
六曰、懲惡勸善、古之良典。是以无匿人善、見-悪必匡。其諂詐者、則爲覆二國家之利器、爲絶人民之鋒劔。
亦佞媚者、對上則好説下過、逢下則誹謗上失。其如此人、皆无忠於君、无仁於民。是大亂之本也。 |
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管理人の意訳:(当時、文字の読めなかった市井の人々には、以下のように理解させたことと思う)
悪を懲(こ)らしめ、善行を薦(すす)めるのは、昔からの政(まつりごと)の鉄則である。
だから、公正に見て善は褒(ほ)め、好ましくない行いは必ず本来の在るべき形に正(ただ)せ。
また、気に入って貰おうとおもねる者や、陰に回って裏切りする者などは、国家を乱す元凶(げんきょう)であり、民意を乱し不正を蔓延(はびこ)らす剣のごとくである。
更にまた、人あたりがよくて、口先上手く身近に近ずく者は、とかく目上の者に対し、己を印象づけて売り込むために、他者や部下の落ち度を告げ責任の転嫁を図(はか)る。
部下に対しては,上司の落ち度等を吹聴(ふいちょう)して英雄気取りで誹謗(ひぼう)する。失敗を目敏(めざと)く見つけて彼の責任を追求する。
これらの者は皆、上司に対して忠誠は無い。
やがて長じて上に立てば人民に優しい政治は行わない。したがって、国が乱れる元である。 |
「勝手気ままに法律制度を弄(もてあそん)で手柄にしている。全く天下を救うように見えてその実天下を乱す者は功名の士・功利的人物である。
真に国を救うのはやはり気節の士、道義的人物である。」 「東洋の宰相学」 安岡正篤より
上記のようなタイプが結構上司に受けて居た。そんな輩は、やがて昇進した。実に歯がゆい・悔しい思いをした。 ・・・苦縁讃 |
人間の人格とか議論とか主張とかいうものは案外わからない。権門富貴の間にあって淡々として名利(みょうり)に執着のない人もあるし、厳岫(がんしゅう)の間にいかにも高く矜恃(きょうじ)しておって、心の中は実は案外偽物(にせもの)がいる。
・・・・ 「禅と陽明学」 安岡正篤 プレシデント社 368頁 |
ちょっと一言:
「司の落ち度等を吹聴(ふいちょう)して英雄気取りで誹謗」と・・・。そこで、いま一つ考察すると、・・・・、今の日本の総理大臣に対する国民(マスメディアも含めた)の批判を連想した。
まことに,不甲斐ない政治の状況である。実に無様な日本の状況である。
周辺の諸外国はどのように見て居るであろうか?・・と思う。 しかし、これが日本の現実である。
総理が野党の時代から、彼のヒステリックな国会のやりとりを知っているはずだ。・・が、この民主党はそして彼は国民が選んだ総理大臣だった。この政治体制は、「民主政治」の中で生まれてた結果である。
・・・これは、我々国民がそうさせているのであった。このことに気付いている人は少ない。
「民主」とか「自由」が、本当に日本に浸透しているのだろうか?
母親から振り込まれた4億円の存在を「知らなかった。」と公式の場で発言できる事が不思議である。
そのようなおおらかな人物が本当に国家を支えられるだろうか???
そんな人物を信じられる日本人の心 ?! 日本の文化が疑われるのである。
政治家を選んだ責任を忘れて、唯、これを批判をしている !
理念の無いようなマスコミの情報(瓦版)に右往左往させられている。・・・・。笑えない現実である。
政治は、確かに批判せざるを得ない状況下だが・・。
2010年 ・・・・苦縁讃 |
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(5) |
道徳的改善への関心 |
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第
五
条 |
第 五 条
「餮(むさぼり)を絶ち欲を棄てて明らかに訴訟を弁(さだ)めよ。
其れ百姓の訴え、一日に千の事あり。
一日すらも尚お爾(しか)なり。況(いわん)や歳(とし)を累(かさ)ねてをや。
頃(このごろ)訟(うったえ)を治(おさ)むる者、利を得て常(つね)と為(なし)、
賄(まいない)を見てはげん(言偏に獻:罪を議すること)を聴く。便わち財あるが訟(うったえ)は、
石もて水に投ぐるが如し。貧しき者の訟(うったえ)は、水をもて石に投ぐるに似たり。
是を以て貧しき民は由(よ)る所を知らず。臣の道、亦ここに闕(か)けぬ。 」 |
五曰、絶饗棄欲、明辨訴訟。其百姓之訟、一百千事。一日尚爾、況乎累歳。頃治訟者、得利爲常、見賄廳?。
便有財之訟、如右投水。乏者之訴、似水投石。是以貧民、則不知所由。臣道亦於焉闕。 |
太子は力を用いることを恐れなかったが、道徳的改善への関心の方が優先していた。
道徳的関心は、迅速で公平な裁判を求める上記の訓戒においても明らかである。
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管理人の意訳:(当時、文字の読めなかった市井の人々には、以下のように理解させたことと思う)
貪欲(どんよく)なむさぼりの欲を断って、公正に訴訟(そしょう)を判決せよ。
万民の訴えは無数にある。
しかし、一時(いっとき)でもむさぼりの心があってはならない。
更にいうならば、これを繰り返すことなどは以ての外(ほか)といわねばならない。
近年、貢(みつ)ぎ物を当然のこととし、これを品定めした結果、その貢(みつ)ぎ物の多少によって訴訟を処理する者ありと聴く。
沢山持ってきた訴訟人の訴えに対しては、訴え人の意志のとおりに石を水に投げ込むがごとくにバシャリと裁く。
貧しい者の訴えは、(貢ぎ物も貧弱であったり無かったりするので)水を石にぶっ掛けるがごとくである。
訴えは散って消え、聞き届けられない。
これでは、貧しい者達は頼りにすべき所が無い。
臣下として君主に仕えようとする場合、これは言語道断(ごんごどうだん)である。 |
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第
七
条 |
第 七 条
「人各任(おのおの)あり。掌(つかさどる)こと濫(みだ)れざるべし。
其れ賢哲官に任(いま)すときは、須(もと)むる音(こえ)起こる。
よこしま(姦遍に干)なる者官を有つときは、禍乱(からん)繁し。
世に生まれながら知ること少し。尅(よ)く念(おも)いて聖と作(な)る。
事、大小となく、人を得て必ず治まる。
時、急緩となく、賢に遇(あ)いて自ずから寛(ゆるか)なり。
此に因りて国家永久にして社稷(しゃしょく)危うからず。
故(かれ)、古の聖王は官の為に人を求む。人の為に官を求めず。」 |
七曰、人各有任。掌宜-不濫。其賢哲任官、頌音則起。?者有官、禍亂則繁。世少生知。剋念作聖。
事無大少、得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此國家永久、社禝勿危。
故古聖王、爲官以求人、爲人不求官。 |
この教えは1,000年も前に述べられたものであるが、今日のように進んだ近代社会においても
おそらく一考の価値あるものではなかろうか。 |
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管理人の意訳:(当時、文字の読めなかった市井の人々には、以下のように理解させたことと思う)
人皆に任務がある。任せて与えられた任務は、その枠の外にはみ出て、勝手気ままに務めてはならない。
賢哲(けんてつ)がその任に当たるときには,自然に”待ち望んで居た!”との民意が現れ、満足の声を挙げる。
功利主義に走り、誠意がない不実な人、相手次第・相手に会わせて主義・主張を変えて迎合(げいごう)する者を任に付けると、国は治まらず、騒然と不協和音が起きる。
人は、生まれながら完成した者は居ない。志を貫きよく努力した者が、やがて聖人となるのである。
物事は、ことの大小を問わず、人を得て初めて成る。
解決を急ぐことがあっても、賢者に任せればゆとりを持って、成し遂げることもできるものだ。
このように、人材の登用如何(いかん)で国家は常に平安である。
従って、古来より優れた君主(上に立つ者・代表者)は、”国家”のために人材を登用する。
家柄とか派閥によって選ぶようなことはしない。 |
注:安岡正篤 氏の書物に、以下のような内容があった。・・・( )内は、管理人の注釈
リーダーとしての、先ず第一条件は、部下の「人物を見抜く」ことだ。
しかし、以下の六賊・七害がリーダーになったりしていると、・・・事は重大だ。
王者の六賊
一 |
臣下の驕る者(部下が、”お山の大将”ばかりで、驕慢(きょうまん)。) |
二
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民衆にあって、まじめに産業に従事せず、志士気取りで放埒なこと
(自らの分をわきまえず任を蔑ろにし、一流気取りですずしい顔で他を誹謗) |
三
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臣下の私党を結んで主の明をおおうこと
(三流人間の一流気取りで、徒党を組む。下司(げす)の勘ぐりで上司の悪口・不平不満) |
四
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臣下にあって主を軽んじ、自ら威勢を張るもの
(些細な欠点をあげつらい、あたかも自分の方が大物のように吹聴する) |
五
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官爵有司を賤しんで、上に協力を肯ぜぬもの
(当面の利害得失に終始し、上司の理想・志を無視し、蔑視する) |
六 |
勢力階級の弱者いじめ(階級・派閥勢力に頼み、傍若無人な振る舞い) |
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王者の七害
一 知略権謀(見識や指導性=胆識たんしき)のない者に爵を尊くする(責任のある任務を与える)こと
二 虚名策術(姑息な手段でうわべだけを繕う)で巧みに時流に迎合する者を相談相手にすること
三 悪衣悪食(流行に流され華美に振る舞い派手な生活をするが)をいかにも道徳家のように装いながら、
その実、名利欲の強い偽りの人物(偽善者)を近づけること
四 徒に体裁を飾り、或いは名利に関心がないように見せる姦人(功利主義に走り、誠意がない不実な人、
相手次第・相手に会わせて主義主張を変えて迎合)を寵すること
五 大事を図らず(志低く)、利を貪って(自分の得になることに目聡く面子にこだわり)動き、空理空論
(子細な事、枝葉末節な事に拘わる)する者を悦ぶこと
六 浮簿な文事(形式)に走って、農事(自らのずべき任務軽んずる・阻害する)を妨げるような者を禁ぜぬこと
七 異端邪道(○×法とか○×派の当代一流の知識であるかのように吹聴し)を以(もっ)て
民の迷信を煽る(信じ従わせる)者を止めぬこと |
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☆ 胆識(たんしき)について ☆
(略)
胆力とか胆気とかいうものは、困難を排して進行する精神力を表し、人物の重要な資質である。
識に関しても、智識というものは頼りない。進んで見識というものにならねば優れた判断にならない。
その見識が幾多の抵抗を排除して断行する力を具備する時、これを胆識という。抵抗・障害を排して、見識を断行する勇気はこれを胆勇といい、その人物の器量を胆量といい、その具体的方策を胆略という。
これらは英雄に無くてはならない資質である。云々 「天地有情」 安岡正篤著 黎明書房より |
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第
十
四
条 |
第 十四 条
「群臣百寮、嫉(うらや)み妬むことなかれ。
我既に人を嫉(うらや)むときは、人亦我を嫉(うらや)む。
嫉(うらや)み妬(ねた)む患(うれえ)下に注あり、其の極を知らず。
所以(このゆえ)に、智己(おのれ)に勝るときは悦(よろこ)ばず、
才己に優るときは嫉妬(ねた)む。
是を以て五百(いもとせ)にして乃(いま)し今賢に遇(あ)うとも、
千載にして一の聖を待つこと難し。
其れ賢聖を得ずば、何を以て国を治めん。」 |
十四曰、群臣百寮、無有嫉妬。我既嫉人、々亦嫉我。嫉妬之患、不知其極。
所以、智勝於己則不悦。才優於己則嫉妬。是以、五百之乃今遇賢。千載以難待一聖。
其不得賢聖。何以治國。 |
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管理人の意訳:(当時、文字の読めなかった市井の人々には、以下のように理解させたことと思う)
部署の責任者及びすべての役所の肩を並べる職員達は、相互にうらやんだり、ねたみ心を抱くことが無いようにすべきである。
とかく他人に対して、地位や彼の処遇をうらやましく思うが、それは自分のみではない。
同じ様に他者は、ひそかに自分をうらやんでいるものだ。
「うらやみ心」や「ねたみ心」の”邪見(じゃけん)”は、止まるところが無い。
(鏡に映した他の鏡の中の風景のように、)際限がない。
だから、人は他者が見識において自分に勝っていると思えば不愉快に思い、仕事が手際よくできる者に対しては妬みを抱く。
このような、見にくい有様から脱却できるように努力し、人生を達観した”賢者”に成るよう努めなくてはならない。 <だが、簡単なことではない。>
このように、随分と昔から今日に至るまで、まれに”賢者”に遇(あ)うことはあったが、”聖人”に会おうとしても、それは不可能に近い。
だが、”賢者”や”聖人”が居なくては、国を治めることはできないのだ。
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注:嫉(うらや)み妬(ねた)む患(うれえ)に関すること 安岡正篤より
見濁(けんだく):人間は他の動物と違ってだんだん大脳が発達して、そこから思惟、
思考が発達する。
これを「見」という。
この「見」に五濁がある。
第一 |
我 見(がけん) |
つまらない自我に執着して物を観ること。 |
第二 |
辺 見(へんけん) |
物を子細に観察しないで一面一辺をとって直に結論を出す。 |
第三 |
邪 見(じゃけん) |
邪(よこしま)な心、ねじけた心を持って物を考えること。
今まで大切にしてきた物にけちを付けて喜ぶ。 |
第四 |
見取見(けんしゅけん) |
イデオロギーの誤り。一種の先入観。 |
第五 |
戒禁取見(かいきんしゅけん) |
本当の真理がわからないで、むやみやたらに「べからず」を振り回す。 |
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注:「東洋の宰相学」 安岡正篤より
鞅(おう)の説く政治: 革新政治
「智者は法を作り、愚者は制せられ、賢者は礼(制度文化)を更(あら)ため、不肖者は拘泥するものだ。」 ・・・・・甘龍が、「聖人は民を易(か)えずして教え、智者は法を変えずして治めるもの。
民に因(よって)教うれば労せずして成功し、法に縁(よ)って治めれば吏は習熟しているし、民衆は安心するものだ。」といったのに対して鞅(おう)がいった言葉は・・
人よりも高い行(おこない)有る者はもとより世に非(そし)られ、独特の見識有る者も必ず衆よりそしられるものです。
「智者はことの成り行きをまだ萌(きざ)さぬうちにちゃんと見抜いてしまいます。
民は与(とも)に始を慮(おもんばか)るべきものではなく、与に成功を楽しめばよろしい。
至徳を論ずる者は俗に和せず、大功をなす者は衆に謀(はか)りません。
だから聖人はもし国を強くすることができるならば、何も故事に依らねばならぬと言うことはありません。
民を利することができさえすれば、別段その制度に循(したが)いもしません。」と・・・。
改革を断行。隣組(となりぐみ)制度を作り連帯責任を厳重に。二男には分家せしめ、これに倍額の税。
軍功を賞し私闘を禁じた。
甘い道徳論・妥協論を一切排除して、耕織を本務とし、中間商人を排除し、怠情による貧困を罰した。
名家も国家に対する奉公の成績によって待遇し、功なき者は貶(おと)した。
法の行われぬのは上よりこれを犯すからであるとして、上位の者も仮借することなく罰した。
始めに非難して、後で迎合してきたような者は辺境に流し、「転向者」を許さなかった。
法治主義で法に恃(たの)みすぎると、末流になればなるほど、どうしても煩瑣(はんさ)になる、人情に悖(もと)る。
人間を治めんとして人間に背くに至るのである。
次には権力を振るいすぎて謙虚を失うようになる。
冷静謙虚な反省が無くなると、どうしても本当のことがわからなくなる |
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(8) |
独裁すなわち恣意(しい)的な個人支配を非難・・日本民主主義の萌芽であり出発点 |
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第
十
七
条 |
第 十七 条
「其れ事独り断(さだ)むべからず。必ず衆(もろもろ)と論(あげつら)うべし。
少なき事は是れ軽し。必ずしも衆とすべからず。
唯大なる事を論(あげつら)うに逮(およ)びては、
若し失(とが)ありことを疑うが故に、衆と相弁(わきま)うるときは辞(こと)理を得。」 |
十七曰、夫事不可獨斷。必與衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事、若疑有失。
故與衆相辮、辭則得理。 |
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管理人の意訳:(当時、文字の読めなかった市井の人々には、以下のように理解させたことと思う)
政治の決断を下す場合、必ず民意を汲(く)むため、協議の場に挙げるべきである。
事の些細(ささい)な件も時にはある。こんな時にはこのかぎりではない。
ただ、重大な懸案を協議しなくてはならない事態に及んだときには、軽率な判断にて失策を行わないように慎重を期すべきだ。
こんな時には自分の立場と責任をわきまえて、事態を良く整理して、事の動機付けを明確にすべきである。 |
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この思想は日本民主主義の萌芽であり出発点と言うことができる。
この思想は和の精神のもとで討議の行われるべきことを規定した第一条とも関連している。
この憲法は、大化の改新後の勅令によって具体化された。
この勅令は、「天地の間に君として万(よろず)の民を宰(おさ)むること、独り制(おさ)むべからず」と述べて、
君主による恣意的な支配ー今日の言葉で言えば独裁ーを非難している。 |
◇ この独裁への抵抗の観念は、どこから来ているのであろうか。 |
@ |
日本神話のなか |
古代の統治方法は、君主すなわち”万人の主”の命令によるのではなく、川のほとりの会議によっていた。参加者の意見が無視されれば、会議はほとんど成功し得なかったのである。
従って、太子が古神道からこの思想を受け継ぎ発展させたと想像することも故(ゆえ)なしとしない。
注(管理人):”故なしとしない” ・・・・ 道理にあった理由がある |
A |
仏教教団の戒律が
太子の思想に影響 |
仏教教団の戒律が太子の思想に影響したとも考えられる。仏教教団の戒律は太子も知悉している仏典のなかに詳しく述べられており、その中に多数決の法則も含まれているのである。
アショーカ王やソンチュェン・ガンポ王において他と議することが明文化された形で勧められていないことは注目に値する。 |
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他と議するというこの思想ないし精神は、政治権力が天皇から封建時代の将軍に移るまで保たれた。
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(9) 天皇の優越性・・・アショーカ王やソンチュェン・ガンポ王に比べて独特な相違点 |
第
三
条 |
第 三 条
「詔(みことのり)を承(うけたまわ)りては必ず謹(つつし)め。
君をば天とす、臣をば地とす。天は覆(おお)い、地は載(の)す。
四つの時、順に行われて、万(よろず)の気通うことを得。
地、天を覆わんと欲(す)るときには壊(くず)れを致さくのみ。
是を以て君言(のたま)うをば臣承(うけたまわ)る。
上おこなうときは下靡(なび)く。
故(かれ)、詔(みことのり)を承(うけたまわ)りては必ず慎(つつし)め。
謹(つつし)まずば、自(おのずか)らに敗(やぶ)れなん。」 |
三曰、承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆臣載。四時順行、萬気得通。地欲天覆、則至懐耳。
是以、君言臣承。上行下靡。故承詔必愼。不謹自敗。 |
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管理人の意訳:(当時、文字の読めなかった市井の人々には、以下のように理解させたことと思う)
天子から命令を承(うけたまわ)るときには、正して畏(かしこ)まって聞き入れなさい。
天子は”天”である。臣民は”地”である。天は地を庇護(ひご)して覆(おお)い、地は天を支えるのである。
正しい時間に、律に則(のっと)って、これが伝えられれば、すべての気功が順良く通うであろう。
”地”である、臣下が君主を軽んじ自ら威勢を張るようなことが在れば、国は崩れるであろう。
だから、天子が命令を承るときには、臣下は正して畏(かしこ)まって聞くのである。
これを、また、役人が民に伝えるときは、草木が風になびくように、なびき従いなさい。
前述のごとくである。天子の命令を承るときには、正して畏(かしこ)まって聞き入れるのである。
畏(かしこ)まって聞き入れなければ、国は内から崩れるであろう。 |
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上に立つ者に倫理的な欠陥があれば、一般民衆を統治することはできない。
同様に一般民衆に倫理的な欠陥があれば、どれほど上に立つ者が励んでも無数の犯罪や非行が起こるであろう。普遍的国家の統治の基盤となる者は礼節、より広くいえば倫理的な原理であった。
天皇・官吏・人民の関係は、漢代儒教によって組織された古代中国をモデルとして形成されたものであった。
しかし、このモデルは日本的土壌に移植され、大化の改新の本質をなす氏族権力の廃棄と密接に結び付いていたように思われる。 |
(10) 天皇の威光への尊敬を示す |
第
十
二
条 |
第 十二 条
「国の司(みこともち)、国の造(みやつこ)、百姓(ひゃくせい)を斂(おさめと)らざれ。
国に二(ふたり)の君あらず。臣に両(ふたり)の主(あるじ)なし。
率土の兆民は王(きみ)以て主と為(す)。
所任せる官司は皆是れ王の臣なり。
何をもてか敢えて公に百姓を賦斂(おさめと)らん。」 |
十二曰、國司國造、勿収斂百姓。國非二君。民無兩主。率土兆民、以王爲主。
所任官司、皆是王臣。何敢與公、賦斂百姓。 |
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この条項は天皇朝廷下の領土の中央集権的支配原理を明瞭に述べたもので、のちに国家的規模で行われた土地・人民の氏族所有の廃棄を予示するものと解されよう。
地方の支配者の権力は消滅しようとしていた。
「国に二(ふたり)の君あらず。」と言う言葉は、日本に独自というわけではないが顕著な思想であり、のちに日本の天皇制を特徴づける絶対主義を予知するものである。
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さて、聖徳太子の「十七条の憲法」を、日本の始まりの”兆し”として、考えてみた。
時は、その後1,300年経過した。
日本とは何か?日本人の背骨とは一体どのようなものか?・・・・これだけでは、明確にできる課題ではない。
・・・ 苦縁讃 |
補: |
☆ 「寛容への道」と題して、上山春平 氏は、 NHK TV に、以下のように述べていた。 |
s.ハンチントンは、著書「文明の衝突」の中で、世界の文明を8つに分けていた。
仏教文明の中に、日本が入れられると思ったが、そうではなかった。日本の文明は、特異なものとして分類されていたのだ。
それは、 |
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1 |
ラテンアメリカン |
5 |
バラモン(ヒンドゥ) |
2 |
アフリカン |
6 |
ロシア |
3 |
イスラミク・・・コーラン |
7 |
仏教文明 ・・・ インド仏教も、そして、中国の仏教も、戒律が厳しいと言われる。 |
4 |
シニク(中国) |
8 |
日本文明(仏教と分かれている)・・日本を仏教文明の中に入れていない。寛容すぎると言うのである。 |
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日本・・・今、戒律は無きに等しい・・が、仏教として定着したかどうかは疑問が残るが・・・。
いまだに、日本には仏教が残っている。 ・・と言う。
◇ 最澄が、250の大乗戒をまとめて戒律を定めた。 「貶すな怒るな惜しむな」など・・・。
更には
◇ 親鸞は、「戒律など守れない凡夫だからこそ、仏が守ってくださるのだ。」・・寛容性を説いた。
日本のみが、独立したネガティブな文明である。すべてを受け入れる女性的な体制である。
他の文明は、皆ポジティブな文明だという。
確固としたJapanese Civilization が望まれる。 ・・・・・・と、上山春平 氏は結んだ。 |
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附:☆ この頃の歴史的な背景 |
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